【人事労務のリスク管理メモ】9月号アップしました
【今回のストーリー】
●採用は間違っていなかった思うが…?
「採用を急ぎすぎたか…?」製造業を営むG社では、良い人材があれば積極的に採用し、会社の将来を担ってもらえるよう、教育指導にも力を入れている。ところが最近ちょっとした問題が起きている。それは、昨年末に中途採用した従業員のS君から、「実は…」と、メンタル疾患に罹患していて現在も通院中ということを打ち明けられたことだ。
採用を担当した総務部長のIさんは頭を抱えた。採用面接の際には、特に問題もなく、というより、誠実でかつバイタリティーを感じる、いわゆる「できる」人材だと感じたし、実際にもこれまで特に問題なく業務をこなしてくれている。心配することは何もない、と自分にはいい聞かせたが、気がかりなことには変わりない。
もうひとつIさんが悩むのは、これを役員らに報告すべきかどうか、という問題だった。当然報告すべきだろうけれど、特に今問題が起きているわけではないし、逆に報告することで、自分の立場がまずくなるのではないかという不安もある。
あるいはこのことを伝えたら、即解雇しろ、と言われるのではないかという心配もある。
いろいろと悩んだ末に、結局Iさんは、いま特に問題が無いのだから、あえてやぶ蛇になるようなことを言う必要は無いと考え、このことは自分の胸の中だけにしまっておくことにした。それにしても、なんで今になってこんなことを、それも直属の上司ではなく、よりによって自分に伝えてきたのか、いぶかしくも思った。
それから数か月、何事もなくS君の業務にも特に問題があったわけではなく、Iさん自身、このことをすっかり忘れていた。
●繁忙期に入り、体調に異変が…
S君の変調が現れたのは、現場のライン作業が繁忙期に差し掛かったころだった。残業が増え、納期の要求も厳しくなってくるのは例年同様だったが、S君にとっては、入社間もないこともあり、気持ちの上での負担が日増しに大きくなっていった。
職場内の忙しい状況の中で、業務が追い付かないこともあり、出勤することに苦痛を感じるようになってきた。それでもこの時期を乗り切れば、このままやっていけると思い、自分なりに頑張っていたが、間違いなくS君は職場の足手まといになっていた。作業に慣れてきたとはいえ、先輩スタッフたちのスピードには追い付かない。
現場の上司は、入社間もないのだから、無理せずミスをしないように自分のペースでやればいい、とS君を慮ってくれたが、職場のスタッフ全員がそう思っているわけではないだろう。周囲の雰囲気も、S君に対して冷ややかになってきた。問題が起きたのは繁忙期もピークに差し掛かったころ、S君は対応に迷ってまごまごするよりも聞いた方が早いと思い、隣で作業する先輩従業員に声をかけたときだった。
「いつまでお客さん気分でいるんだ、いい加減にしてくれ!」
つい口に出てしまった、という感じで、決して悪意はなかったと思われるが、繁忙期という状況がそう言わせたのかもしれない。これに溜飲を下した現場の従業員もいただろう。
しかし、S君は、あまりの剣幕にその場で固まってしまった。体を動かそうと思っても動かない。自分の中で何かが壊れてしまったような気がした。
●「出勤するのが怖い…」
それから、S君は出勤することに恐怖感を感じるようになり、なんとか出勤しても、現場ではボーっとすることが多くなった。それに伴ってミスも増えてきた。心配した上司が、体調に気を使ってくれたが、S君は「大丈夫です、申し訳ありません」とだけ言って、現場作業を続けた。S君は、何とか仕事を続けたいという気持ちでいっぱいだった。
とはいうものの、現場を預かる上司としては、放置できる状況ではないと感じて、総務部長のIさんに相談した。IさんはS君の状況の変化を初めて知り、体全体から血の気が引いていく思いだった。椅子に座っていなかったら、卒倒していたかもしれない。
Iさんはできるだけ冷静に、「医師への診断を促して、仕事の継続の可否の判断を仰ぐべきだろう」と返答したが、その後どんな会話になったのか、Iさん自身覚えていないくらいのショックを受けていた。
S君の主治医は、「三か月の休養が必要」とする診断書を書いた。S君自身は欠勤したくなかったが、これ以上無理をすれば回復が難しくなると説得され、不本意ではあったが、そうするほかないだろうとも感じた。
●S君をどうするか?
その後のS君は一旦復職はしたが、以前のようなバイタリティーは消え、自信がなさそうにいつも隅の方で人とのかかわりを避けているようにも見えた。現場の上司は、少しづつ元に戻してくれればいい、と言ってはくれているが、あとから言い訳のように総務部長のIさんに伝えたとは言うものの、面接時に体調のことを、あえて告げずに採用されたことに後ろめたさを感じていた。それを理由に解雇されてしまうのではないか、そんな不安もあった。
一方社内でも、S君の処遇が問題になっていた。まじめで一所懸命ではあるが、繁忙期の一件以来、復職後も欠勤がちで、正社員として信頼がおける戦力として疑問符がついている。そのため、しっかりと仕事ができるようになるまで、パートとして、週数日程度のシフト編成で様子を見てはどうか、ということになり、その旨を上司からS君に伝えることになった。
●「実は…」
パートへの変更を打診されたS君は、ちょっと落胆したが、回復すればフルタイムで働けることを聞きホッとした。一方、体調が元に戻らなければ、パートのまま、ということもある。いや、もしかすると、採用時に問題ありとして、パートのまま退職という流れに向かってしまうのではないか…
心配になったS君は、意を決して話をした。「やはり、採用時に通院中であることを告げなかったことが、大きな問題なんでしょうか?」と聞いたが、上司はきょとんとしていた。入社以前から通院していたなど、初めて聞く話だ。上司が驚いて改めて確認すると、S君も「なぜ知らないのか」と言わんばかりに、採用後に総務部長のIさんにその旨を話したことを伝えた。
●健康配慮義務の問題
I総務部長は役員室に呼ばれ、事実関係の説明を求められた。すぐに報告せず、また適切な対処もしなかったことを強く非難されたが、始末書の提出を求めたのみで、大きなペナルティーは与えなかった。
Iさんはホッとしたが、だからそれでよかったという問題ではない。もしIさんにS君の病状を告げられた段階で、業務の軽減などを検討して入れば、状況は変わっていた可能性がある。とくに現場の上司にその旨が伝えられていれば、現場で適切な対応ができた可能性がある。
ということは、対応が遅くなったために病状の悪化を招いた、ということになれば、これは会社に大きな責任を問われる要因となる。
パートへの変更について、S君はむしろ離職せずに済んだことにホッとしているようだが、S君の体調悪化について、もし責任を追及されるようなことになれば、会社は知らなかったでは済まされないだろう。もしこのままS君がパートからフルタイム勤務に戻れなければ、自ら退職するかもしれないし、そのときに、きっとこの問題が顕在化する可能性が十分にある。
会社としては、S君に対する十分なケアに心がけ、早くフルタイムで業務に従事できるようにすることが重要だ、という結論になった。Iさんは会議中、終始面目ないという様子でうつむいたままだった。