一言でトラブルといっても、問題を相談されたという段階から、いきなり法的な措置を取られた、という場合まで様々ですが、いずれに段階おいても、決して目をそらさず、きちんと対応することです。ここで妙なからくりを使ったり、奇をてらった変化球を投げることはご法度です。問題の状況をこじらせるだけだからです。
使用者側で、よほど不用意な対応を繰り返して大きな損害を従業員に与えた、という場合以外は、従業員側が弁護士に対応を依頼する、ということは一般論としてまれではないかと思います。ですので、もし問題が大きくない段階で従業員が弁護士に対応を依頼している場合、その真意を確認する必要があるかと思います。訴訟を現実の問題として想定しているとは考えにくいからです。おそらくは直接言えない何らかの事情があり、弁護士に依頼をした、ということも考えられますが、こうした場合、やはり使用者側としても弁護士を立てざるを得ないという判断になる可能性もありますが、いずれにしても、まれなケースではないでしょうか。
特に重要なのは、深刻な段階に至っていない場合の対応です。大したことではない、と放置してしまいがちですが、ここで丁寧な対応ができれば、トラブルの深刻化を避けることができます。「そんな些細なことで…」などと思わず、このいわばクレームの段階できちんと対応することが大切です。ここでもし対応をしないという姿勢を繰り返した場合、本当に深刻なトラブルになるだけでなく、使用者側の対応が不誠実など言う言質まで与えてしまいかねません。
使用者としては、何かおかしな状況を目にし、耳にした場合、これは大した問題ではない、と考える、というよりもむしろ、問題ではないと考えたいという、問題などはないと思いたい、という願望が、微妙な問題への対応に躊躇させる大きな要素ではないかと思います。
問題への対応は、面倒ごとであり、ややもすると些細な問題をことさらに大事にしてしまいかねないリスクがあるのではないか、などと考え始めると、対応しないことのメリットが大きく見えてきます。ですが、ここで立ち止まってお考えいただきたいことは、些細な問題に対応すると、些細な問題が大きな問題になりかねないリスクがある、と思ってしまう理由です。それは、些細な問題に「不用意に」対応すると…という気持ちが隠れているのではないでしょうか。
「不用意に」対応するよりも、対応しないほうがいい、と考えるのか、「熟慮の上適切に」対応して、問題の深刻化を防ぐべき、と考えるのか、理屈の上での結論は自明です。問題は「熟慮の上適切に」対応することの負担と効果、でしょう。
「熟慮の上適切に」対応することは、精神的にも物理的にも負担が大きいかもしれません。特に気持ちの上での負担、一言でいえば面倒なわけです。しかも、日常の業務を一旦ストップしなければならないかもしれませんし、その対応に時間がかかる場合には、大きなストレスになるでしょう。そのような負担の結果、しかもうまく収拾ができなかったとすれば、結局藪蛇だった、何もしないほうがましだった、ということになるかもしれません。
では、やはり何もしないほうが良いのか、という葛藤に至ったとすれば、これはつまるところ、トラブルは深刻になってから対応するほうがいいのか、その前に対応する方がいいのか、という、どちらが正しいかどうかというものではなく、価値観の問題、選択の問題になるのかもしれません。
ですが、トラブルの未然防止を目的とする労務管理という建前でいえば、当然に事前に対応するべきものという考え方になるでしょう。では、藪蛇になるリスクを負ってまで、微妙な問題に対応するメリットはあるのか、についてです。
ここでお考えにただく必要があるのは、仮に藪蛇になる、つまり、逆に大きな問題になってしまう、ということですが、その場合、そもそも大きな問題になるには、何らかの原因がなければならない、ということに気が付くことが大切です。そもそも大きな問題の氷山の一角だったのであれば、問題を過小評価していただけのことで、早晩抜本的な対応が必要だったはずです。
あるいは、問題解決の話し合いの中で、たまたま発覚した新たな問題に飛び火をしたのであれば、ついでに片付ければなお効率的と考えることもできます。
本当の意味で藪蛇になるとすれば、何もしなければ時間が解決していたであろう問題が、ことさらに問題視されることで、事態が混乱する、という展開になることでしょうか。これについては、問題対応の際に、本当に時間が解決する問題なのか、つまり、ほとぼりが冷めるまで待つことが最も効率的効果的な解決対応なのかどうかを、解決行動を起こす前に見極めることで、判断ができるものではないかと思います。
そうした意味でも、「熟慮の上適切に」対応する、というスタンスが、最も望ましいのではないか、と思えてきます。
では、「熟慮の上適切に」対応する、つまり解決行動を起こす前に、その微妙な問題を評価しなければならないということですが、それはとりもなおさず、その微妙な問題の本質を見極める、ということかと思います。
問題が起こったということは、その原因が必ずあります。起きてしまった問題に対しては、特にその問題の状況に近い関係にあるスタッフ、管理職は、感情的な判断に偏る傾向があります。これは無理もないことで、問題の当事者に近ければ近いほど、事実関係を客観的に観察することが難しくなると思うからです。ですので、一歩下がった立場から、改めて問題の事実関係を時系列で整理してみることがとても大切になってきます。時系列で事実関係を整理することで、どこで何が起こったのかが目に見えるようになり、どのタイミングで、当事者の感情に、当事者の判断に、何が起こったのかが間接的に透けて見えてきます。
計画的に行なっているものなのか、あるいは場当たり的に衝動的な判断を繰り返しているのか、それは表面上のあらわれた働きかけや表現が客観的で冷静かどうか、ではありません。一つ一つの要求や主張を個別に見れば、それぞれがそれなりの事実関係を背景にした問題提起になっているとしても、時系列でその主張内容をみたときに、その本人の主張内容に全く一貫性がないこともあります。場当たり的に重箱の隅をつつきまわしている、という全体像が見えてくれば、これはその本人の気持ちは、一つ一つの問題についての解決を求めているというよりは、自分自身の形にできない不満、それは自分自身でもうまく理解ができていない可能性もありますが、そのはけ口として、仰々しく問題の指摘を繰り返しているだけ、かもしれません。そうであれば、指摘された問題に正面から向き合うことだけで解決できる問題ではない、ということになります。もっと言えば、正面から向き合うことに意味が無いのかもしれません。
ここでこの本人の採用から現在に至る職場での状況を、時系列で確認をしてみます。すると、いくつかの特徴が見えてくる可能性があります。採用当初から使用者に対する文句が多かったのか、あるいは、何かときっかけに突然増えている、発生している、かつて本人にかかる問題があったが、それは一時的なものだったところ、また今回の問題が発生した、といった場合には、その発生直前に何があったのか、などと確認することで、実は本人の特性が見えてくるのです。
自分のストレスのはけ口として、使用者に対して業務上の不満を漏らすだけにとどまらず、パワハラだとか、労基法違反だ、などと脈絡もなく指摘し続けるのは、その本人の気持ちに何らかの大きなわだかまりがあるのではないかとお考えになる必要があるのではないでしょうか。常識的に考えて、自分が雇用されている使用者に対して、話し合いのプロセスを飛び越えて、いきなりトラブルの段階に入ってしまったとすれば、使用者としては、職場内でのコミュニケーションについて、職場環境も含めて何らかの改善を考えなければならないと思いますが、同時に、少なくともこのトラブルの相手である従業員に対して、より慎重な意思疎通が必要であることを念頭に置かなければならないかと思います。
問題に至るプロセスを時系列で整理をした際に見えてきた従業員本人の特性や能力について、客観的に見つめ直す機会にされるべきではないでしょうか。
適度なストレスは業務の効率的効果的な遂行に欠かせないものですが、それが過度になりすぎたり、業務の妨げになるような要因になるようなものである場合には、調整をしなければならないこともあろうかと思います。
こうした対応は、とりもなおさず人材の効率的効果的な活用を目的とするものになっている、という点が極めて重要なところかと思います。
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