【人事労務のリスク管理メモ】10月号アップしました

【今回のストーリー】

●ほこりをかぶった就業規則

Y社は建築設計事務所を営む従業員数十名の会社で、社長のSは営業の得意な若手経営者として活躍しており、人材の採用についても積極的だった。有望な人材と判断すれば即採用し、S自らOJTと称して、新入社員を自分の仕事の同行させることが常だった。
Sのうわさを聞いて興味を持った就職活動中のTは、ぜひ経営者のSに会いたいと思い、Y社に履歴書を送った。Tは間もなく三十歳になるが、これまで事務的な職場を転々としていて、自分でも長く勤めることができる職場を求めていた。もしSが魅力的な人物であれば、ぜひこの会社で仕事がしたい、と強く感じていた。
Tの履歴書を見たSは、短期間で転職を繰り返すTに疑問を感じたが、S個人に対して強い尊敬の念を持っている旨が記載されていることもあり、ぜひ一度は直接会ってみたいと思った。
元来細かことを気にしないおおらかさのあるSにとって、Tには神経質な面を感じつつも、知的でまじめな一面を強く感じていた。特に、これまでの転職を自ら恥じて、長く勤めることができる職場を求めている気持ちをとつとつと話すTに好感を覚えた。Sは、Tを何とかしてやりたい、という気持ちが強くなった。
Tにはこれといって専門的な能力を期待した訳ではないが、まじめに長く勤めてくれればそれでいい。Sはそう思いTを採用した。そしてさっそく、SのOJTが始まった。が、とたんにTの気持ちは萎えてしまった。「こんな猛烈社長についていくことはできない、僕は死んでしまう…」
そもそも社長について回ることなど面接のときに聞かされていないし、朝から晩まで社長と一緒では神経が持たない。Tはすでに辞めることを考え始めていた。そこでいつものように(?)就業規則を確認しようとしたが、周りには見当たらない。総務担当のAさんに就業規則がどこにあるか聞くと、キャビネットの中にある、という。
なかなか見当たらないため、Aさんと一緒に探して見つけ出した就業規則は、ほこりまみれで、印刷された紙は茶色く変色していた。Tは「しめた!」と思い、ほくそ笑んだ。

●仮面を脱いだTの本性

ほこりまみれの就業規則は、最後の改訂が数十年も前で、おそらく先代の経営者であるSの父親が社長だった時に作られたものだろう。社長個人の魅力で会社をけん引する親分肌のSには、就業規則などに関心が無いことは容易に理解ができる。規定内容も実態の伴いわないものが羅列している。
Tの目を引いたのは、賞与と退職金に関する規定だった。賞与は年2回、六月と十二月にそれぞれ基本給の2か月分を支給すると規定されている。また退職金については、年収の一割に勤続年数を乗じた金額を支給する旨が規定されていた。規定内容の大雑把さもさることながら、まさにバブル絶頂期に無批判に作られた内容だったのだろう。
Tは、賃金債権の時効が二年であることを考慮して、二年になる前に辞めることを決意した。仮に一年我慢すれば、ボーナスは4か月分、退職金は年収の1割が転がり込んでくる計算だ。少なくとも一年は頑張ろうと思った。そのためには、いかに社長の管理下から離れるか、が問題だった。
そこでTは何かにつけて、体調が悪いとか、祖父の介護があるなどと言っては遅刻がちになり、一方で終業時間が過ぎても帰社しようとせず、遅刻した時間分は残業すると言っては、長時間の残業を恒常化させていた。
しかし残業については、誰も管理する者がいないため、本当にTが残業したのか、残業で何をしたのか、確認のしようがなかった。しかも、タイムカードを打刻し忘れたと言っては、ほとんど手書きで時刻を記入していた。
しかし一方の会社では、さすがにその手書きの時間をその通り計算することもないとして、一律に支給している定額の残業代を支払うのみだった。

●放任されたTはやりたい放題

普段のTの仕事ぶりに対する不満を職場のスタッフからたびたび聞かされている社長のSは、大ナタを振るわなければならないか、とも思いつつも、Tを採用したときの気持ちを振り返ると、自分自身の責任を感じてしまい、それでも何とかならないかと思う一方で、もう一度、入社したときの気持ちを取り戻してくれないだろうかという淡い期待もあり、何ら具体的な管理方法の改善などを検討することはしなかった。
一方のTは、半ば社長のSから放任のお墨付きをもらっているような気楽な気分で、遅刻と残業のやりたい放題を続けていた。このままでいけば、賞与と退職金は自然に転がり込んでくる。それだけがTがここで仕事を続ける動機だった。
そんなTの気持ちなど知る由もない社長のSは、Tを飲みに誘ったりするが、適当な理由をつけて全く応じることもない。このままではいけないと業を煮やしたSは、事務所にいるTを応接室に呼び、ざっくばらんに近況などを聞こうと話を始めたが、Tは徐々に落ち着きを無くし始めた。もともと一見不愛想で話し方がとつとつとしているため、その変化を気にすることもなかったが、席を立ってうろうろし始めるに至って、さすがにSも我慢ができなくなった。
「じっと座って話ができなのか!」といつになく強い口調で言うと、TはSをにらみつけたかと思うと、応接室の扉をバタンと閉めて出て行ってしまった。そしてTはそのまま何も言わず帰社してしまった。
その日以来、Tは出社することもなく、職場は落ち着きを取り戻していた。SもTに対しては、勝手に出て行ったのだからそのままにしておけばいい、とあえて関わろうともしなかった。むしろ胸のつかえがとれたような気になっていた。
Tのことをすっかり忘れていたころ、Y社の事務所に、労働基準監督署の調査官が訪れた。社長のSには、いったい何が起こったのか、全く見当がつかなかった。

●Tは賃金未払いを労基署に申告した

Tは勝手にY社を欠勤した後、これまで周到に集めたタイムカードや就業規則のコピー、給与明細などを証拠資料に残業代、賞与の未払いを申告したのだった。調査官に見せられた資料に、Sは絶句した。Tがこそこそと残業していたのは、このためだったのか、と今更ながら納得した。
思えば、そもそも採用時に違和感を感じた職務経歴が今の状況を予言していたのだろうと思う。それにしても、そんなTに対して、翻意を期待していた自分がばかばかしく、腹立たしかった。
Tは無断欠勤でもあり、懲戒処分相当であるからといって、残業代の未払い分が帳消しになるわけではない。それにしても六月支払い分の賞与とはいったい何か?Sには全く意味が分からない。
結局Tは六か月足らずで会社を去ることになったため、退職金まではせしめることができないとほぞをかんだのだろう。

この事例については「トラブルを未然に防ぐ就業規則とは?」のテーマとして取り上げました。