【人事労務のリスク管理メモ】8月号アップしました

【今回のストーリー】

●上司は私を育てたい

と素直なAは思っている。でも実際には、上司Bの言動は感情的で、とても注意指導の範疇とは思えない。「お前には仕事のセンスがない」「お前の意識は小学生レベルだ」「これまでまともな人間関係が無かったんじゃないのか」「三流大卒はこれだから困る」「いつでも容赦なくクビにするから覚悟しておけ」…
Bの意識のほうが、はるかに子供じみている、と職場の同僚たちもBの奔放な言動に心を痛めつつも、そんな言動に対してすら従順なAを様子を見ると、何も感じるところが無いのだろうか、と不思議な気持ちにもなっていた。同僚Cが、Aを心配して「D支配人に相談してBのひどい言動を注意してもらった方がいいのでは」と進言したが、Aは「Bは私を育てようとしてると思うし、それに支配人はとてもいい人だから、相談できない」という。
同僚のCは、本人にその気がないのに、余計なお世話だと思いつつも、このままで良いとは思えなかった。
その後、何も言っても従順なAが気に入らないのか、BのAに対する言動は激しさを増していく。
「なんでも俺の言うことには『ハイ』と言っていればいいんだ」
「はい」
「よし、今『ハイ』と言ったな。これからお前はおれの奴隷だ。自分の発言には責任を持て。分かったな。」
「…」
「返事は!?」
「…」
「今『ハイ』と言っただろ!」
「…」
「なんで『ハイ』と言わない?『ハイ』と言え!」
職場で同僚らが居るのに、お構いなしに怒鳴り散らすBは、周りにわざと見せつけているように、時折ほくそ笑んでいる。異常な状況に、たまらず同僚のCが叫んだ。
「B課長、いい加減にしてください。仕事中です。」
「何だ、C。お前も餌食になりたいのか。」
Bは何かにとりつかれているように、うつろな目でCを睨んだ。もしや、アルコールでも入っているのか?Cは状況を冷静に把握しようとした。
「B課長、今ご自分で、何を言っているのか分かりますか?」
「…貴様… 、俺を侮辱する気か!」
というと、いきなりBのスマホがCの肩をかすめた。職場は騒然となっているが、C以外、誰も何もしようとしない。これまで、この職場では、こんな雰囲気が当たり前のようになっていたのだ。身の危険を感じたCは、そのまま支配人へ助けを求めた。
ただならぬ状況を耳にした支配人のDを伴って、Cが職場に戻ってくると、職場はシンと静まり返っていた。Aはそのまま立ち尽くしたままで、Bはスマホの破片を拾っている。普段は穏やかなD支配人も、眉間にしわを寄せ、困惑の表情を隠そうともしない。
「何が起こったんだ?」
「いや…何も…」
こんな状況で支配人を前にして、さすがのBも何も話すことはできないだろう。それにしてもD支配人は、これまでのB課長の横暴な言動について、何も気が付いてなかったのだろうか。ほんとうに気が付いていなかったとすれば、いくら温厚なD支配人とはいえ、あまりに鈍感だ。
BはDに促され、職場から出て行った。Bの言動はアルコールによるものではなかったらしいが、事態の重く見た人事は、Bを一定期間、本社人事に研修という名目で職場から隔離した。本社人事が動いたきっかけは、Cが隠し撮りしていた日常的なBの暴言の音声ファイルだった。
それから数か月たった今まで、この職場にBが戻ってくることはなかった。Bが居てもいなくても、何事もなかったかのように、業務が粛々とこなされてゆく。Bの暴言の日々は何だったのだろうか。
その後、精神科への受診を勧められたBは、そのまま退職したらしいという噂が聞こえてきた。営業成績はずば抜けていたBも、管理職には向いていなかったということか。やはりあの異常な言動は、何か問題を抱えていたのだろう、とCは改めて感じるものがあった。一方で、そんな噂にAは「きっとB課長も苦しんでいたんだと思います。」とポツリと言った。Aには、もしかしたらBの気持ちが読めていたのかもしれない、そう思うと、Cは自分の行動が果たして正しかったのか、自責の念に駆られている。

●意気消沈する息子に気をもむ母親

またE店長の母親Fが事務所にいる。最近では当たり前のようにご出勤で、店長の手前、誰も何も言わない。母の深い愛情と言えば聞こえはいいが、四十も超えようとする息子に世話を焼く母親Fには、周りのスタッフもドン引き状態だ。
事の起こりは店内でのトラブルにあった。店内での陳列が不適切で転倒してしまったという年配のお客への対応で、大したことは無いと判断したE店長だったが、このお客の家族が、本部へクレームを付けたことで、事故報告の怠慢を人事から指摘され、Eは懲戒処分として始末書の提出を求められた。
そのショックでEは数日間寝込んでしまった。心配した母親Fは、あなたは何も悪いことはしていない、と繰り返し励ましたが、Fの場合、それだけでは済まなかった。どこから何を聞き出してきたのか分からないが、息子のEに対する処分は、結局Eを追い詰めて自主的に退職させるものだ、とか、これまでにも会社はこうしてスタッフを退職に追い込んできた、今度は息子がターゲットになった、これはパワハラだ、などと言い始めた。だいたい何のケガもしていないのに、客からのクレームがあったからといって、そんなクレーマーの言い分を聞いて息子を処分するなんて許せない、と息巻いている。
退職すると言い張る息子のEを励まし、何とか出勤させたことがきっかけで、それから毎日付き添ってくる。最近では一日中事務所にいることもあり、スタッフにとっては鬱陶しいことこの上ない。
そんなある日、店内を巡回していた店長のEが、陳列作業中の商品が入った段ボールに躓いてケガ(?)をしたことから、件の母親Fが大騒ぎをしだした。店長Eが責任者としての体をなしていないこの店舗の状況を問題視していた人事が、解決措置を講じようとした矢先のことだった。人事には母親Fから直接連絡が入った。
人事は労災で扱う旨を丁重に告げ、しかるべき手続きを取るようEに指示をしたが、そんな手続きを取ったような形跡すらなかった。通院の必要すらなかったのだろう。
この状況を見極め、人事はEに対して異動の辞令を発した。タイミングも時期も、決して不自然ではなく、全社的にみれば、むしろ遅いくらいのタイミングだった。当然Fは大騒ぎだ。左遷人事だ、不当な配転だ、などと喚いている程度のことは人事の耳にも入ってはいたが、直接何も話は入ってこない。何を言ってもFに勝ち目のないことは明白で、さすがに「私と息子を引き離す気か」とは言えなかったらしい。
これをきっかけにEは退職するのかと思いきや、素直に異動に応じてきた。異動先は自宅から通勤することはまず不可能な場所であり、人事としては、Eを親離れさせることが先決と考えてのことだった。
しかし、人のうわさも何とやらで、どこからともなく「E店長はマザコン」とささやかれている。そうした噂にも頓着しないのか、Eは臆面もなく事務所でFに電話して泣いているという。時間が解決するだろうという人事の思惑とは裏腹に、母親のFが動き出したらしい。今度は会社の労基法違反を労基署に申告したらしいのだ。ところが、この調査を受けたのが店舗の責任者である店長のEだった。こんなオチがつくとは、まるでコメディーだ。
今人事の最大の関心事は、このFが次に何をするかだ。何も分かっていないこの親子への対処に頭を悩ませるというよりは、様子見を決め込んでいるようでもあった。

●社長の気持ち、管理職の意識

本部から遠く離れたG事業所に社長が巡回に来るのは年に数回程度で、決まって宴席が設けられる。といっても、居酒屋でざっくばらんにコミュニケーションをとることが、巡回の一つの目的でもある。
今年は社長の巡回がまだだな、などと思っていた事業所長のHに、社長から連絡があり、仙台に行く途中で、明日G事業所に寄るという。突然のことなので、飲み会は無理をする必要はない、という社長の配慮の一言に、H所長は業務を最優先に考えることが大切と思い直していた。
ちょうど繁忙期でもあり、職場の残業時間も一年を通してピークの時期だ。無理に社長とのお付き合いを職場のスタッフに強いることは、翌日の業務にも差し支えがある、と判断したHは、次のようにスタッフに連絡した。
明日社長が来るので、夜は飲み会があること、ただ今回は急で、繁忙期でもあり、無理をして出席をしなくても良いこと、そして、無理をしなくても良いと言いながら、自分が出席したのでは休みづらいだろうという気持ちから、H自身も出席しないことを付け加えた。
その結果、出席者は、二十名近くの職員のうち、数名しかないということになってしまった。が、Hは、社長から無理をしなくても良いという配慮の一言が反映されてよかったとすら感じていた。酒席の翌日、社長は午前中職場に顔を出し、通り一遍の挨拶だけをして仙台へ向かった。
その晩のことだった。夜遅くにHの携帯が鳴った。仙台事業所のI所長からだった。IとHは同期入社で、気の置けない同僚でもある。こんな夜更けに何事かと、Hは電話に出ると、Iの様子が物々しい。
「お前、社長と飲まなかったらしいな」
「無理するなって言われてたし…何か、まずかったかな?」
「お前、何考えてるんだよ。社長から『昨日は三人しかいなかったよ』って言われたときは、凍り付いたよ。とっさに何も言えなかった…」
Hはこのとき、はじめて自分が判断を誤ったことを悟ったが、もはやどうすることもできない。
「お前もいないなんて、話にならないだろ。」
「いや、俺が参加したら、ほかのスタッフだって行かない訳にいかなくなるだろうし…」
「何を寝ぼけたこと言ってるんだよ」
「いや、俺は業務を最優先に考えた結論のつもりだったが…」
「所長が社長とコミュニケーションをとることは、最優先の業務だろ!」
「…」
「せめてお前だけでも出席してれば、何とか体面は保てただろうに…」
Hにはもはや二の句を告げなかった。何とか自分の気持ちを取り戻そうと、弁解していたつもりが、判断の間違いを確信することにしかならなかった。
「どうすればいいだろう、これからそっちに行っても遅いよな。」
「当たり前だ。でも明後日は盛岡のはずだから、その気持ちがあれば、行ってきたらどうだ。」
「…」
Hはそれでも、逡巡していた。そこまでする話か、社長のご機嫌を取るより、業務で結果を出すことが第一だろう、と自分を励まし続けたが、H自身の飲み会への欠席は、やはり大きな判断ミスだった。きっと社長は、行く先々で、G事業所では三人しか来なかった、所長のHすら参加しなかった、と話すだろう。遅かれ早かれ、自分は社長の飲み会に行かなかった所長として、全支店に知られるところとなるだろう。そう思うと、Hはいたたまれない気持ちになった。
「悩んでるくらいなら、行って来たら」
「ありがとう。考えるよ。」
Iからの電話を切ると、社長の曇った顔が思い浮かんだ。次回のG事業所への巡回はあるだろうか、事業所長会議は針の筵だろう…Hの妄想は尽きない。そう思うと、Hの頭の中に「退職」の二文字が浮かんできた。
次の年、社長は仙台事業所の飲み会でIと話をしていた。
「Hは惜しい人材だったな」
「私と同期で、出来るヤツでしたから」
「お前、なんか言ったんじゃないのか」
「あの晩、すぐに電話しました。暗に、社長に詫びを入れろと…」
「オーバーだな、俺は何とも思ってないのに。忖度流行りで、全く考え物だ。周りがいろいろ言いすぎる」
「…申し訳ありません…」
「君の事じゃない。一般論だ。それにしても、Hがその程度のことで退職とは…」
「私もあまりに唐突で、驚きました」
「もっとも、その程度のことで退職するというのは、逆に言えば、その程度の人材だったとも言える」
「そうでしょうか…?」
「が、責任は俺にある。俺ももっとHを忖度してやったら良かった、ということか…」
Iは素直に、良い社長だ、と思った。同時に、Hが最後の判断まで誤ったことを気の毒に思った。