【人事労務のリスク管理メモ】8月号アップしました
【今回のストーリー】
●今年度のボーナスを不支給としたい…
従業員規模百名程度の大手メーカーの下請けを中心業務とするN製作所に勤めるHさんは、入社十年目の中堅社員。これまでK社の主力製品の部品Sの製造ラインを中心に、製造工程を一通り経験しており、現在は工場長に次ぐ責任ある立場にある。
業務量はかつてのピーク時から比べると若干減少傾向にはあるが、それでも堅調に推移しており、特にSの売り上げは前年比で一割ほど増加している。Sの製造ラインに関わっているHさんは、連日残業続きで、多忙を極めていた。
そのような中、総務部長から重要な話があると呼び出しがかかり、ライン作業の合間を見計らって会議室に向かった。そこにはすでに総務部長と専務に加えて、社長も臨席していた。Hさんは嫌な予感を感じた。
冒頭、総務部長が話の口火を切りった。「会社は現在、創業以来の岐路に立っている。」それはK社から資本参加の申出があり、それはとりもなおさずN製作所がK社の傘下に入る、事実上の子会社化を意味していた。N製作所としては、S以外の製品が伸び悩んでいることから、今後の経営安定化を図るうえでも、決して悪い話ではないと考えていた。
一方で、K社からのリストラ要求も大きく、対応に苦慮していることも事実だった。そのため、人件費削減の一環として、今年度のボーナスを不支給とすることに同意してほしい、と会社はHさんに求めた。
昨年までのボーナスは、賃金規程に従ったもので、夏は基本給の一・五か月、冬は二か月分が支給されていた。Hさんには住宅ローンの支払いもあり、一部減額程度であれば妥協の余地もあったが、全額不支給はとても受け入れられるものではなかった。
●ボーナス不支給への同意は、雇用継続の条件!?
Hさんは、そうした個人的な事情も踏まえた上で、会社の状況に理解を示しつつも、一部減額であれば考慮の余地もあると返答したが、会社の姿勢は頑なだった。社員の協力が得られない場合には、K社からの資本参加はない、つまり会社の将来はないということだ、と説明し、もし同意が得られない場合には、来年度の雇用は約束できない、という衝撃的なものだった。
これは、ボーナス不支給への同意がない場合には解雇をするという予告そのものだ。Hさんには、あまりの突然の話の展開に、一言もしゃべることができない。
会社側も、そうしたHさんの困惑を察して、今月中に回答してくれればいいので、ゆっくり考えるように告げて、その場の話は終わった。
Hさんは、その後職場のラインに戻っても上の空で、気が付くと自宅に戻っていた。果たしてこれはどいういうことなのか。幾分冷静になったHさんは、今後のことについて、少しずつ具体的に考えた。
ここで会社の条件を飲んで雇用の継続が約束されたとしても、親会社からのリストラ圧力は増すばかりではないのだろうか…ここでの譲歩は、この会社にいる限り、未来永劫求められ続ける譲歩の第一歩に過ぎないのではないか…いや、現在の会社の状態は決して悪い訳ではない。倒産寸前でK社に助けを求めるような形ではないのだから、悲観的になる状況ではないのかもしれない。しかもK社の子会社となれば、何かの機会に親会社の社員になる可能性もあるのではないか…などと楽観的になったりもした。
しかし、憶測は推測にすぎないのであって、こんなことをいくら考えていても、何の解決にもならない。状況についての事実を、まずは会社からしっかりと説明を受けるべきだと思った。
●釈然としない会社の説明
Hさんは、N製作所がK社の子会社となった場合、N製作所の従業員である自分自身は、どのような立場になるのか、とか、賃金減額の要請は今後も続くのではないか、といった不安について、説明を求めたが、日本を代表するK社の子会社になるのだから、決して悪い話ではない、とか、N製作所自体の経営が行き詰っているわけではないのだから、K社の判断次第ではあるが、これ以上のリストラ要求はないのではないか、などと、まるで人ごとのような返答で、不安は募る一方だった。
かといって、ここでボーナス不支給に応じずに解雇された場合のことを考えれば、この年齢での転職の難しさや、仮に転職できたとしても、そのときの賃金などの労働条件がどうなるのか、などの不安を考えれば、会社の求めに応じる方が、まだ痛手は少ないのではないか、などと考えあぐねていた。
●ボーナス不支給に同意してしまったが…
思い悩みながら結論が出せずにずるずると月末になり、総務部長から、結論はどうなったのか、と催促があった。結局、納得のできる結論には至らなかったものの、いずれにしても、ボーナス不支給に同意するのか、しないのか、どちらかの結論を出さなければならない時期になってしまった。
Hさんは、不安定な要素をできるだけ避けるという意味では、会社の要求に応じるほかないと思い、ボーナス不支給に応じる旨を総務部長に返答した。
それに対して総務部長は、同意に対する感謝と、「よかった、よかった」を繰り返し、すぐに同意書にサインするよう求めてきた。Hさんは、同意に対して、申し訳ないという気持ちを示してくれるのであればともかく、小躍りして喜ぶ総務部長に対して、嫌な予感と同時に、腹立たしい気持ちが込み上げてきた。
よほど同意を撤回しようかとも思ったが、一旦口に出した以上、サインを拒否するのも大人げないとも思い、そのまま同意書面にサインをした。Hさんは、本当にこれでよかったのか不安に駆られたが、後悔後に立たず、もう考えるのは止めようと思った。
●「だまされた…!?」募る会社に対する不信感
しかしHさんの予感が的中したことを、間もなく知ることになった。ボーナス不支給への同意をしたのは、Hさんを含めた十数名のみで、同意をしなかった従業員が解雇されることはなかった。
同意への見返りとして、職務手当を若干増額されたものの、とても見合うものではない。とても納得のできないHさんは、総務部長に対して、ボーナス不支給に同意しなければ解雇といったのは、どういうことかと詰め寄った。
総務部長は、雇用の約束ができないと言っただけで、「解雇するとは言っていない」としれっと言い切った。「ふざけるな」と言いたかったが、ぐっとこらえた。
N製作所にK社が求めたものは、どうやら一定のリストラ努力の一端を見せろ、という程度のもので、最初から全員のボーナス不支給を求めるものでは全くなかったらしい。Hさんは、だまされた、としか思えなかった。これまで十数年務めてきたN製作所から、このような仕打ちを受けるとは…悔しい思いが一気に込み上げてきた。
●これでよかったのか…?
N製作所は当初の予定通りK社の子会社となり、今回の論功行賞で、総務部長はK社の本社に異動となった。ボーナス不支給の同意に小躍りして喜ぶ理由が、Hさんには今分かった気がした。
一方で、HさんもK社から出向してきた新任の総務部長から、K社のラインを経験してみないか、と打診してきた。心は動かされたが、総務部長がK社に異動したのと同じく、Hさん自身も裏取引をしたのではないかと思われるのではないかと、後ろめたさを感じた。結果として悪い方向に向かったのではないが、釈然としない、後味悪いものが残った。