待遇改善には優先順位がある

給料が高いから社会保険に入らなくていい…!?

ずいぶんと昔の話になりますが、ある経営者の方と社会保険について、ざっくばらんな話をしていた時に、こんなことを言われた記憶があります。

「ウチでは社会保険に入らない代わりに、給料もボーナスも破格の金額を出している。従業員もそれで満足しているし、むしろそれを望んでいる…」

社会保険の適用は、要件を満たせは強制適用であって、使用者の任意の判断で選択できるものではありません。ですのでこの経営者の方は明らかに誤った認識をしていたことになります。

「従業員もそれを望んでいる」は本当か?

今思えば、それ以上に気になるのは、従業員は本当にそれで納得をしていたのか、それを望んでいる、とまで言い切るその経営者の方の認識です。おそらくは私に対して、いくばくかの警戒心もありつつの、その方なりの説得力を持たせた意図的な表現だったのかもしれませんが、もしこれが本心、本音であったとすれば、労務リスクを感じない訳にはいきません。

従業員は社長に対して「それはおかしい」と言えたか?

上司から、ましてや自分を雇用している経営者から、「賃金を多めに出すから、うちは社会保険には入らないけど、その方が良いよね、社会保険料は高いからね。その方が手取りが多くなるし…」などと言われて、もちろんその通りだと思う従業員もいるかもしれませんが、大半の方は、ちょっとおかしい、と思うに違いないでしょう。ですがそれを口に出して言うかどうかは、別の問題です。

トラブルは離職後に

もしこの経営者に雇用された従業員が、何らかの理由で離職を余儀なくされた時に、何を考えると思いますか。おそらく在職中は、この社会保険については、それほど意識をしていなかったのではないかと思われますが、不本意な理由で離職をせざるを得なくなったこの従業員が、何かこの会社に補償を求めることはできないか、と考えたとしても、なにも不思議ではありません。そのとき、格好の交渉材料になるのです。

社会保険未適用のリスクはあまりに大きい

このときに考えなければならないリスクは、この労働者からの民事的な補償要求、それは社会保険の遡り適用とすでに遡れない期間がある場合には、その期間についての年金額の減額分相当額、それと、もし長期の病欠があった場合でその期間が無給であったのであれば、傷病手当金相当額、など、状況に応じて様々なものが考えられます。それらに加えて、行政からのペナルティーも考えなければならないでしょう。ペナルティーというよりも、あるべき対応が求められる、つまり遡り適用は、この労働者一人だけの問題ではなくなる、会社全体の問題になる、ということです。

そこでお考えいただきたいことは、もし適法に対応をしていれば、このような問題は起きる余地がない、ということです。特に社会保険料の経済的な負担は大きいものがありますが、対応は待ったなしです。

未払残業代は手当の増額では支払ったことにならない

例えば、残業代の未払いがあるかもしれないという状況では、本来であれば、残業時間の把握とそれに伴って支払義務が生じる割増賃金の支払を確実にすることが先決であって、その代わりにボーナスを上乗せするとか、手当を増額したとしても、割増賃金を支払ったことにはならない、ということです。

従業員に「おっ!」と思わせたい?

割増賃金を適法に支払っています、と言っても、それは当然だろうという反応しか返ってこないでしょう。一方で、ボーナスの上乗せをします、手当を増額します、と言えば、「おっ!」となるでしょう。ですが、これで割増賃金の問題がするわけではありません。どこかのタイミングでこの問題が再燃するリスクは残ったままです。

アピールしたい気持ちは分かりますが…

使用者側からの気持ちとしては、処遇を労働者有利に変更するのであれば、それがはっきりと労働者に分るようにアピールしたいのですが、その時に順番として、間違ってはならないことは、まずコンプライアンスの徹底が最優先である、ということです。

労働者の権利規定の活用を前提にした労務管理の必要性

それ以外にも、年次有給休暇や育児休業など、労働基準法をはじめとした労働諸法令では、労働者保護を目的とした規定が数多くありますが、これらの適用については、むしろ積極的に使ってもらうという姿勢を打ち出すこと、そうしたことが可能になるような労務管理体制を確立させることが、労務リスクを大きく軽減させることになります。

賃金増額や手当の追加などをお考えになる場合には、まずその前に、上記の点が徹底されているかどうかをご確認いただくことが必須ではないでしょうか。

負担軽減が目的の業務委託契約は大いに問題がある

この業務委託契約、インデペンデント・コントラクターなどと言う横文字を使うこともあるようですが、一言で言えば、個人事業主として取り扱う、ということです。個人事業主であれば、労働者ではないため、労働法上の様々な使用者としての義務は無い労働法上の制約から解放される、ということになります。就労条件は、極論すれば、発注者である会社がほど自由裁量で何の制約もなく決定できることになります。労働者ではないため、当然と言えば当然です。

「業務委託契約にすれば手取りが増える」は、確かに事実かも知れないが…

手取りが増える、収入が増える、これは労働者にとって魅力です。労働社会保険料相当額が手取金額に上乗せされれば、おそらく手取り額は3割近くが増えるはずです。これはただ保険料負担分相当額を、手取り額に振り替えただけのことですから、使用者にとって新たな追加支出は発生しません。それだけではなく、労働基準法上の労働者の権利規定である年次有給休暇とか、休業手当、割増賃金の支払義務からも解放されるとすれば、むしろ使用者側に得るものがはるかに大きいと言えるでしょう。そうした意味では、そうした負担軽減相当分として、賃金にさらなる上乗せをしても、おつりがくるのかもしれません。ですが、業務委託契約によって、つまり労働者ではなくなることによって、労働社会保険や労働基準法によって補償されていたものが、一切なくなることの対価なのですから、労働者から見れば、労働者保護という立場をお金で売った対価、ということもできるわけです。

業務委託契約への切り替えは、その意味を労働者に理解させることが前提

つまり、労働者ではなくなるという意味、労働者という立場を放棄するという意味、それによって何を失うのか、何が得られるのか、これを具体的な事実関係に即して説明をしたうえで、労働者の納得のもとで再契約をすることが、将来のトラブルのリスクを回避するためには不可欠なプロセスです。特に雇用契約から業務委託契約への変更については、労働者性が実態判断であることを考えますと、使用者側の不利はどうしても否めません。トラブルを回避することが極めて重要になってきます。

法的根拠は必ず整えておく

こうしたプロセスを経て、業務委託契約のへの変更をしたとしても、そのかつて労働者だった委託者に、後から後悔の気持ちが湧き上がってくることは否定できないと思います。その時に、やっぱり業務委託契約の方が、自分にとっては得るものが結局は大きい、という結論に至らなければ、トラブルになるでしょう。ましてや、こうした説明プロセスを経ずに、なんとなく業務委託契約に変更してしまっていたという場合には、おそらくこのかつての労働者は、会社に騙された、とまで思うようになります。こうしたリスクを考えれば、やはり業務委託契約の妥当性を担保する法的根拠を整えておくことは必須であると考えるべきだと思います。

労働者かどうかは契約名称に関わらず実態で判断される

労働者性は実態判断と書きましたが、名実ともに個人事業主である場合には何ら問題はないことになりますが、労働法上の様々な労働者保護規定や労働社会保険の負担を免れることを意図して、もしこの業務委託契約の活用を考えたとすれば、これはまさに労働法の脱法行為であって、就労実態から労働者であることが明らかであれば、契約名称に関わらず、つまり業務委託契約という名称の契約であったとしても、その実態は労働契約であるとして労働諸法令の適応を受けることになります。

労働者性について、簡単に…

労働者性については大変詳細な要件や議論があって、実際にはまさにケースバイケースでの対応になるのですが、ここでは誤解を恐れずに、シンプルにコメントしてみます。具体的な判断については、事実関係から慎重な判断が必要になることは言うまでもありません。

個人事業主は「部下」ではない

労働者性の要件としては、抽象的ですが、指揮命令関係があること、賃金が労働の対価になっていること、この二つがあります。個人事業主は業務を受託しているのであって、上司の下で仕事をする部下ではありません。就業規則の適用など当然ありません。給料も、時給だったり、残業代が支払われているとすれば、これは労働者です。

区別がつかないなら労働者

一言で言えば、雇用されている従業員と同じように就労しているのであれば、実態は労働者、とお考えになって差し支えないかと思います。ですので、例えば、これまで雇用契約だった従業員に対して、業務委託契約に変更させたからと言って、仕事の内容が同じであれば、個人事業主としての実態を備えていない、ということになる訳です。

個人事業主にはフリーランス新法の適用がある

なお、いわゆるフリーランス新法の施行によって、業務委託契約が認めらる範囲が広がる訳でありません。フリーランス新法は、名実ともに個人事業者として業務を受託する就労者の就労条件、就労環境を適切健全なものにすることが目的の法律ですので、既に業務委託契約によって就労しているスタッフがいる場合には、フリーランス新法が新たに適用される可能性が十分にあることになります。

業務委託契約への変更判断は、業務委託契約の業務遂行特性で判断するべき

労働社会保険料負担や労働者保護規制から解放されることだけを目的に業務委託契約に変更することは、おそらく何らかの齟齬が業務上で起きることが十分に考えられます。労働者と個人事業主は、そもそも自ずからその立ち位置が異なるからです。賃金の手取り額が、個人事業主の方が3割から4割程度高かったとしても、それは労働者保護を放棄させた対価であって、両者の人材の力が同等であるならば、使用者にとってその人材活用のための経費としての経済的負担の大きさは、変わるものではないはずです。業務を遂行するにあたって、労働者として業務に従事してもらう方が効果的なのか、業務委託契約で業務に携わってもらう方がより適当な業務内容なのか、それぞれの特性を見極めたうえで選択判断をするべきものではないでしょうか。労働社会保険負担から免れることを目的に業務委託契約を選択することは、労使双方にとって好ましい結果を生むものにはなり得ないと思うからです。