【人事労務のリスク管理メモ】バックナンバーをアップしました

●誰がコンプライアンス部門に通報したのか?

D社は機械製造部品を取り扱う商社で、その部品の特殊性から全国シェア約三割を占めている。と言っても、全国に十二か所の営業所を持つ従業員数二百名ほどの中小企業である。入社十年目のRは、安定した高い営業実績が評価され、このほど主力営業所の一つであるS営業所の所長に大抜擢された。
S営業所はD社設立以来の長い歴史のある営業所であるが、一方で旧態依然とした雰囲気やベテランの社員が幅を利かせている、いわゆるやり難い職場でもあった。D社では、S営業所の刷新と営業成績の向上を図るため、Rの登用するという英断をした。
そのため、D社本部でも、Rの所長就任によってS営業所が一気に変わるとは思っていない。当然様々な問題も生じ、それらを解決していくプロセスで、少しづつでもS営業所が変わってくれればいい、とさえ考えていた。
これまでS営業所の所長には、S営業所の次長が昇進する形で就任することが多かったが、職場の改革を意識し始めた数年前より、他の営業所のベテラン所長を横滑りさせる形を取っていた。しかし、S営業所のスタッフと折り合いが合わないことが多く、改革が何度もとん挫していた。そのため、これまでS営業所で着実に力をつけてきたRを、あえて抜擢したのであった。
RはD社本部の意向を十分に理解し、意欲的にS営業所の職場の改善に取り組んでいった。しかし、入社十年目のRにとって、部下となるスタッフの半数以上がいわば先輩であり、Rにとっては慎重に気を使いながらのリーダーシップにならざるを得ないことから、D社本部が全面的に後方支援をする必要もあった。
そんなおり、D社人事に、Rに対する不満を告げる報告があったことをコンプライアンス部門から報告を受けた。このコンプライアンス部門はD社が外部に委託している。
内容は抽象的で、しかも報告した本人が名前を明かすことを強く拒んでいるという。そのため、D社でも大きな問題としては取り上げなかった。そもそもRの抜擢には、そうしたやっかみや嫉妬は想定の上のことでもあったので、具体的な事実が不明であることからも、些細な感情的不満にすぎない、と考えた。

●渦巻く憶測

S営業所長のRの就任にS営業所内の雰囲気は、当初から冷ややかな反応だったが、Rの熱心な姿勢に、少しずつ状況が変わっているかのようにも見えた。Rが主導する営業活動へのテコ入れによって、成果もわずかながら上向いていった。
こうした中で、再びコンプライアンス部門にRに対する不満が報告されたが、今回は、Rによる残業の強要があっとこと、しかもそれがいわゆるサービス残業であるという具体的な事実があげられていた。しかし営業部門での残業はRが所長になる前からも常態化しているし、しかもその残業時間も減少傾向にある。それはRが残業時間の削減に努めていたことも一因であった。
そこでD社本部の人事は、S営業所のスタッフへの個別面談を行い、これらの問題を含めた状況把握を行った。その結果はおおむねRに対しては好意的な評価であったが、一部のスタッフ、特に定年後嘱託への移行が間もなく予定されている課長のIとMは、Rに対して終始冷ややかで、今回のサービス残業の件についても、Rが残業の削減を強く明言したため、残業しても実際の時間通りにタイムカードの打刻していないスタッフがかなりいるのではないか、という指摘をしていた。
このIとMは、五十五歳以降、昇給、昇格がないため、課長のまま定年を迎えることとなる。従来のS営業所の慣習からすれば、すでに次長から所長というルートを経ていたと思われるが、折からのS営業所改革の流れのなかで、その思惑を外され、不遇であることを職場でも公言してはばからない。Rに対して表面上はともかく、好意的な気持ちになれるはずがない。
コンプライアンス部門への不満の報告も、おそらくはIとMであろうと判断したD社本部は、IとMの処遇がS営業所改革のカギである捉え、彼らの専門性をより強く発揮できる業務への変更によって、直接Rからの業務指示などを受けずに、独自の判断で遂行できるようにした。
IとMをRとのかかわりを断ち、彼らの処遇を変え、S営業所の改革も一歩前進かと思われた矢先に、今度はRの服務規律違反を指摘する怪文書がD社本部に送られてきた。このため、内密にIとMに、この怪文書の件について慎重に面談をしたが、全く知らないし、疑われること自体迷惑な話と、強く否定をしていた。
Rに対する批判はどこから出ているのか。やはりIとMの嫌がらせにすぎないのか、それとも全く違うところに原因があるのか。ここでD社本部は行き詰ってしまった。

●思わぬ伏兵

怪文書の一件は、D社本部によって処理されたが、後からその事実を知ったRは、そのままにしておいては問題の解決にならないと考え、S営業所に、怪文書の事実を公表した。これはR自身の服務規律違反を自ら明言することにもなるため、D社本社は難色を示したが、些細なごまかしなどはかえってマイナスになる、公表することで、信頼を得ることの方が得策とのRの強い意志を尊重して、D社本部もその公表を認めた。
ちなみに、Rの服務規律違反というのは、服務規律に規定されていたものだが、実は営業現場の慣例として、全社的に行われていたことで、半ば公然と認められていたような違反だった。
公表に対しては、職場内での動揺は特になく、その後も日常の業務が粛々と遂行されていた。
ところが数週間たったある日、一人のパートスタッフUから、コンプライアンス部門への報告や怪文書の件も含めて、自分がした旨を直接Rに讒言した。問題が日々大きくなって行くことに、恐ろしさを感じたらしい。
Uはある社員Xから、これがうまくいけば社員に採用されるから、という甘言に載せられ、このXの指示に従って行動していたらしい。UはXの名前を言うことはできないし、この事実を伝えた以上、仕事を続けるわけにもいかないと、間もなく離職した。
この事実を知ったD社本部は、そのXが誰か、全く見当がつかず、疑心暗鬼になっていた。そんな中、Rの処分が避けられない事実が起こってしまった。

●事実を知るのはただ一人

得意先から現金で売掛金の回収をしてきたRは、同行した同期のEと昼食をしたが、Eは、財布を忘れたので立て替えてほしいと頼まれた。ところが自分の財布をみるとわずかな小銭しか入っていない。おかしいとは思ったが、Eから「売掛金があるじゃない」と言われ、Rは一旦は躊躇したが、背に腹を変えられないし、もしかすると会社に忘れてきたのかもしれないし、いずれにしてもすぐに戻しておけばいいという安易な思いから、一万円を売掛金から拝借した。
Rは一旦営業所の戻ると、自分の現金を確認しようとしたが、Eから、売掛金を早く経理に預けた方が良いと促され、拝借したことはなど気にも留めずに、そのまま経理に渡してしまった。
売掛金の着服という事実は、D社本部としても何らかの対応せざるを得なかった。Rについては、脇が甘かったとしか言いようがない。なぜそこでカードを使わなかったのか、Rは悔やまれて仕方がなかった。
Rの財布からなくなった現金は、引継ぎを済ませて、間もなく離れるS営業所所長の袖机引き出しの奥から、茶封筒に入って出てきた。Rの後任としてS営業所の所長に就任したのはRの同期であるEだった。

※人事労務のリスク管理メモ2015年6月号から、ストーリー部分のみを掲載しました。